心豊かな環境について考える。。。

現代社会では、ルールや礼儀を大切にし、みんなと合わせること。
自分の権力ばかりを主張しないことが『良いこと』として評価する風潮があります。
そのため自分のことより家族、
そして何より(社会で)他人に迷惑をかけないように生きていける人。
そういう状態の、ちゃんと生きていける状態=『自立した人』として目指してきました。

しかし、現実は “ちゃんとできない” 自分や他人のことを責めてしまう。。。

そんな現状の社会の中で、
【誰でも居ていい場所】として、また、
      + 
価値観は人それぞれ違う、ということを【理解する(=相互理解)】の場所として
活動始めましたが、
これが思ってた以上に人に伝わりませんでした。

そのため、私自身が進もうとしている『道』に悩み・不安を抱き、
更に、周囲の人たちに、なんとか認めてもらえるように
結果を出そうと頑張り過ぎたら、とうとう私自身が心臓を壊し(身体障害者になった)ため、これまで稼げないので、大切な家族や(助けを求めてきた)引きこもりたちの食料確保するため、
2019年にこれまでやってきた(引きこもりたちの)活動の他に『フードバンク活動』を、
譲り受けて行ったのですが、、、。
これが、なかなか大変。。。
特に2020年にはコロナショックもあり、解雇され、フードバンクを必要とする
いわゆる『生活困窮者』たちが数多く集まりました。
(*2020年の7月はピーク)
最低でも毎日2件「食べる物がありません。食べ物を分けてください。」
と、電話かかってきたり、直接、人が訪ねてきたりしました。
中には、幼児が3日も食べ物を食べていない。
しかも、ガソリン代が無いので取りにくることもできない。
更に、電気・ガスなどのライフラインも止まっているなどなど。
生活困窮しフードバンクの利用者は老若男女100人を超えました。
(以下の画像は当事者の声一例)
上記の人のように生活に困窮しても、生活保護を受けることできない人
(例えば、さまざまな理由で旦那と離婚することができない母子・車上生活者・収入のない外国籍の人など)
社会的に支援するカテゴリーに入らない、入れない人たちが助けを求め、
このRe:Homeアカデミーにどんどん集まってくる。

こうした現状の中であっても、
私が行なっているフードバンク活動は、どこからも支援されないどころか、
「食料提供を行なってます。食べれない人たちがいます!」
と食料確保のため、地域や企業にへ頭を下げ寄付を求めても、
変質者、逸脱者、怠け者。そんな感じの烙印を押され、大抵は追い返される。

なぜか?シンプルに理由は(私に)【信用】がなかったからです。

私が追い求めた活動方針=環境は、
『誰もが』あなたらしく、ありのままに、ただ居ていい環境。
それは、誰か?のための、何か?をするための活動ではなく、
〈人〉が〈人〉として、当たり前に生きることができる環境。

特に、身体障害者になってからの私は、
誰かが決めた価値観やルールに縛られることが本当に嫌でした。
当然、そんなことを言っていれば、NPO法人や社団法人という
ルールを設けた活動などできるはずもなく、、、
お金のない私は〈個人的な活動〉として運営することに。。。
そのため(社会的に)どのカテゴリーにも属さないニート・不審者とみなされ、
信用を得られず、当然、食料を寄付してもらうことなどできる訳もない。。。
まさに自業自得な状態でした。。。

しかし、現実は切迫していて、生活困窮している人たちが、
どんどん集まり食料支援を求めてくるため、
私の《活動意義》など関係ない。
背に腹は変えられない。。。食料がなければ生きていけないのです。。。
この状況は、まさに現代の姥捨山(うばすてやま)のように感じました。

そのため、いろいろあたって館林市にあるフードバンク北関東に
2週間に一回程度、高崎市のフードバンク活動を行っている者として
食料をもらいに行ってました。
もちろん、このフードバンク活動も、提供できる人、提供する期間など、
誰かが決めた価値観(ルール)に基づいて行わなければなりません。
なぜならルールを破ることは、食料を提供してくれるメーカーさんたちや、
フードバンク事業そのものに責任問題が発生し迷惑をかけてしまう恐れがあるからです。

それでも、米・パン・インスタント・缶詰などの品物をもらえることは、
珍しく、乾麺や、賞味期限が短いおかず?
また(災害用の)大量のアルファ米などは、とても貴重な食材なので、
もらえた時は、みんなで分け合うと、すぐになくなってしまう状態でした。

そのため、ライフラインが止まってしまっている人たちや、
生活困窮者、孤立している高齢者たちなどでも、
腹を空かしている誰もが食事できるように、、、
と、週一回、無料のカレーの炊き出しを行い、
なんとか、みんなで命を繋いでいた状況でした。
そうやって、必死で活動を続けていくと、
ありがたいことに噂は広まるもので、水上町の個人農家さんで、
余った野菜を毎週分けてくれるという人が現れ、
みんなと分けあうことができたのは、本当に助かりました。

正直、このような状況下で、私の心も折れそうになりながら、
強く、強く、(当時は自分でも言葉にならない漠然とした)
 “自分の目的”→相互理解できる環境(=心豊かな環境)をつくるために
たどり着ける道だと信じて、
踏ん張って生きていることが精一杯という毎日でした。

そのため、食料を求め、自らの足(自助努力)で、来た者や、
自ら、声をあげる者(助けを求めてくる者)には手を差し伸べることができても、
残念ながら安易に私に対して依存的な支援を望む者には、
割り切った(見捨てた)ことも数多くありました。

その都度、自分に問うたことは「私は、今、納得して生きているのだろうか?」でした。


こうした経験を経て、改めて、人にとって《心豊かな環境》とは?
私が望む《相互理解できる環境》とは?を、深く、深く考えるようになり、
そして、一体、人の心とは?なんなのだろうか?
心が豊かでいるためには?
理解することとは?
これが本当に私のやりたいこと?
私は何がしたい?
現実と葛藤しながらも、毎日、毎日、自問自答。
その度に書いては消して、書いては消して、を(現在も)繰り返しています。

そうした中で、今現在、(自分の中で)言葉になっている《(誰もが)心豊かな環境》とは?
を書き記したいと思います。



【心豊かな環境とは?】
人は皆、それぞれ得意なこと、苦手なことがあり、、、
誰かの苦手があるおかげで、誰かの得意が活かされる。
それらはワンセットになって価値を発揮します。
得意なことと、苦手なこと、お互い周りの人と助けあって生きていける。
それが私の求める《相互理解の環境》であり《心豊かな環境》です。

しかし、そのためには、私たちひとりひとりが【自立しあった関係性】を認識し、
他人に関心をもち、価値観の違いを受け入れ、理解することが、とても大切です。
だから私の考える“自立”とは、ひとりで生きていけることではありません。
自立とは、苦手なことを自分で苦手だと認識し、
困ったときに「助けて」と言えることであり、
また、自分自身で得意なことを得意と理解し、困っている人に手を差し伸べられること。
そう考えています。

そして、一番の課題は、
《相互理解できる環境》は、誰か?が、つくるものでもありません!
私も含めた、みんなで、できることを少しずつ、
お互い周りの人たちと助けあってできるものです!

長文になりましたが、Re:Homeアカデミーという場所が、、、
(誰にとっても)心豊かな環境になれたら。。。
この想いを少しでも、理解して頂けたら。。。
そんな想いでまとめさせて頂きました。


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